<第3弾>FLASPO × SMOUT"推し地域の魅力"エッセイコンテスト 投稿エッセイ作品を大公開! | FLASPO MAGAZINE

<第3弾>FLASPO × SMOUT”推し地域の魅力”エッセイコンテスト 投稿エッセイ作品を大公開!

若者が「自分だけが知る“推し地域”」の魅力を自由に綴ることを通じて、地域と若者・企業がつながる機会を生み出すエッセイコンテストを、2025年7-8月にFLASPOと地域とつながるプラットフォーム「SMOUT」 が共同開催!
全国各地から合計70以上の”推し地域”をテーマとした作品が集まりました!

そこで、第3弾の今回も、惜しくも受賞しなかった素晴らしい作品たちをご紹介します!

読むと、地域に関わりたくなる、自分も地域の魅力を言葉にしたくなる、心に残る作品ばかりです!

※コンテスト概要はこちら👇


<エッセイ紹介>

(11)「島旅の原点、与那国」(ペンネーム:レナ)

私の推し地域は、日本最西端の島・与那国島だ。沖縄本島からもはるか遠く、台湾までわずか111kmという距離にあるこの島は、時間の流れが本土とはまったく違う。

初めて訪れたのは昨年の9月、まだ生暖かい風が吹く季節だった。大切な人と一緒に旅して、それまであまり意識してこなかった「島」という場所の魅力に、初めて心を奪われた。到着したその日から、与那国島はじわじわと心を掴んで離さなくなった。

島を車で一周していたときのこと。少し高台になった道を進んでいくと、前方に茶色い影がいくつも揺れているのが見えた。近づくと、それは15匹ほどの馬の群れだった。道路いっぱいに広がり、のんびりと歩きながら、ときどき立ち止まっては海風にたてがみを揺らしている。まるでこの道は自分たちのものだと言わんばかりの堂々とした姿に、息をのんだ。

道は完全にふさがれ、私の車はそこで足止めされた。どうすれば良いのかわからず様子を見ていると、道端から地元のおばちゃんが現れ、手を叩きながら「ほらほら、あっち行きなさい」と馬たちに声をかけた。馬はゆっくりと横へよけ、通り道を開けてくれた。通り過ぎざまに、おばちゃんが「気をつけな!」とひと言。短いその声が、不思議と温かくて、胸の奥に残った。

与那国島は、ドラマ『Dr.コトー診療所』のロケ地としても有名だ。旅から帰ったあと、私はそのドラマを一気見した。見慣れた景色が画面に広がるたび、旅の思い出が鮮やかによみがえる。そして、ドラマの中の人々の温かさが、島で出会った笑顔と重なり、ますますこの島が好きになった。

与那国島の魅力は、雄大な自然だけじゃない。人と動物、そして旅人までもが同じ時間の中で緩やかに息づいていることだ。あの日の馬の群れも、おばちゃんの声も、画面の中のコトー先生も、全部が私の中でつながっている。与那国島は、また帰りたいと心から思える特別な場所になった。

そして何より、この素敵な島に出会わせてくれた大切な人に、心から感謝している。ありがとう。

推し地域= 与那国島

「自然とともに生きる与那国の守り手」

(12)「サンゴとともに暮らす島」(ペンネーム:物知り少女)

奄美大島の東に、サンゴが隆起してできた小さな島がある。この島へは、東京から2本の飛行機を乗り継ぎ、奄美大島経由で向かう。
奄美空港と喜界空港を結ぶのは、大きなプロペラが左右についた小さな航空機で、離陸からわずか10分ほどで着陸する、日本で一番短い航路だ。飛行機を降り、鉄道の駅よりも小さな空港で、手渡しで荷物を受け取ったら、喜界島での旅が始まる。
私が初めて喜界島のことを知ったのは、小学4年生の時だ。夏休みに地元・石川の白山でアサギマダラという蝶のマーキング活動に参加し、その蝶が寒くなる前に南のあたたかい島まで、何百キロも飛んでいくと知った。数か月後、私が羽に番号を書き込んだ蝶が喜界島で発見されたと聞き、その名前が記憶の中に強く残った。
10年弱が経ち、建築学生となった私は、大学一年生の時に初めて喜界島を訪れ、建築のフィールドワークのために、8月の2週間滞在した。喜界島は、サンゴの隆起によって生まれた島だ。その特異な成り立ちから、喜界島サンゴ礁科学研究所(通称・サンゴ研)が設立され、サンゴを専門に研究する海洋系の研究者のみならず、多分野の専門家が世界中から集まっている。建築家と、そして私たち建築学生が訪れるきっかけとなったのも、サンゴ研の働きかけだった。
この島では、道の両脇の石垣がサンゴの塊で作られている。民家の基礎も、庭の鉢も、芋を洗う大きな器も、すべてサンゴだ。昔からの人々の営みにサンゴが溶け込んでおり、それがこの島の当たり前の日常であることに、強く心を惹かれた。
車で島を巡っていると、南国の植物に交じり、見慣れない小さな白い花をつけた畑が目に入った。あとで島の方に尋ねると、それはゴマだと教えてくれた。驚くことに、国産のゴマの生産量は、喜界島が一位なのだという。ほかにも、本土では見かけないサトウキビ畑が左右に広がる一本道や、樹齢100年を超える巨大なガジュマルの木などがあり、目に映る景色のすべてが特別だった。
喜界島に住む人々との何気ない会話も、この島の記憶に色濃く残る。ある時、島を一周するバスに乗っていたら、運転手さんに行先を聞かれ、本来のバス停ではないが、目的地に近い場所で降ろしてくれたことがあった。バスは全然時間通りには来ないが、そのおおらかさも、この島の空気感を表しているようで、私もゆったりとした気持ちになった。
島で過ごした2週間から、もう3年も経ってしまったが、日々のあわただしい生活の中で、折に触れて喜界島での時間を思い出している。最近では、サンゴ研の活動のおかげで、地元金沢の21世紀美術館や、大阪万博の会場で、喜界島のサンゴと再会することができた。
大学生活が終わる前に、もう一度喜界島に行けるタイミングがないだろうかと、いつも心の片隅で考えている。

推し地域=喜界島(鹿児島県大島郡喜界町)

「サンゴの石垣から海へと続く一本道」

(13)「みのり台革命!」(ペンネーム:荒木なるみ)

みのり台は普通の街。
観光名所になるようなものが、何もない。
ちょびっと寂しい街。
でも、それが住み心地いいのか、家も人も多い街。

私がみのり台を知ったのは、今から七年前の夏だった。
仕事を急に辞めてしまい行き場を失った私に、姉が手を差し伸べてくれた。
そうして松戸市に住む姉の元に行くことになった。
2人暮らしが始まったのだ。

それからはワクワクな日々が始まる。
何たって私たち姉妹は、街探検が大好き。
あのカフェはどうだ。あの雑貨屋はどうだ。
ネットで情報を集めてきては、立ち寄ってみての日々だった。

それで知ったのが、みのり台だった。
見つけてきたのは私。
大通りに急に現れたオシャレなカフェ。
こじんまりとしていて、落ち着いている場所が好きな私たちにはうってつけだった。
後日、その店に2人で向かうと、びっくり。
サクサクなエビカツサンド、大きなチョコレートパフェ、苺のドリンク。
どれもこれも美味しくて、あっという間に食べ終わってしまった。
店内のBGMには穏やかなアコースティック、聞こえるお喋りすら子守唄のように私たちを睡眠へ誘いそうなほど、心地の良い空間だった。
それから私たちは、みのり台へ通うことが増えていった。

姉妹探検隊は、満足を知らない。
みのり台を知り尽くすべく週末は歩いた。
住宅街を抜けたところには、古本屋があった。
珍しい本や可愛らしい雑貨が置かれていて、私たちは心を奪われた。
小さい頃に父が読んでくれた絵本を見つけたときは、懐かしさに感動した。

オルゴールが鳴るコーヒー店。
24時間無人の服屋と雑貨屋。
ワッフル店。ベーグル店。
日本料理店。

最近は、姉妹探検隊が追いつかないほどお店が増え続けている。
この街は、何か、すごい街になろうとしている。
私は、その過程をずっと追い続けていたい。
そう思いながら、いつものカフェでまったりする私たちであった。

推し地域=千葉県松戸市稔台

「この先にディープなみのり台が待っている」

(14) 「忘れものを探して」(ペンネーム:Mio)

2024年元日、テレビに映った能登地震の映像が忘れられない。しかし能登はそれ以前から、たびたび自然災害に見舞われてきた土地でした。例えば2023年5月の奥能登地震でついたという壁に入ったヒビを、その年の秋に開催された奥能登芸術祭を訪れた時、民宿で目撃したのを覚えています。「芸術祭に間に合わせるために大変だったんだよ」とおっしゃっていたオーナー。元日の地震の際、その民宿は避難所になったと聞きました。
 私は石川県の生まれですが、実家が南の方にあるので、能登というのは近くて遠い場所。羽田から能登空港まで1時間半で着くのにも関わらず、私の実家からは車で行く手段しかなく3時間以上かかります。小学校の時の修学旅行先も能登でした。生意気な子どもだったから、「せっかくの修学旅行で同じ石川県か〜」と愚痴をこぼしていましたが、輪島の朝市、2匹のジンベイザメがいるのとじま水族館、御陣乗太鼓を宿で間近で体験できたこと、今全てがなくなってしまったことを考えると、貴重な体験ができたのだと思っています。
 「小さい忘れもの美術館」は珠洲市の旧飯田駅全体を使って、駅舎を人の忘れ物で満たした河口龍夫さんによるアート作品です。テーマは忘れたもの、忘れられたもの、忘れていたもの。そしてこの飯田駅そのものが不必要となって忘れ去られたもの。
 展示は、いくつかの構成要素を持っていて、例えば、傘やバッグ、扇子のシルエットが黄色のスプレーによって縁取られたもの。物体自体は存在しないことから、よりその物が持つ記憶を想像することができます。そして、杖、ネクタイ、ポシェットなどが全て黄色のスプレーによって塗りつぶされた部屋。インパクトが強い空間にも関わらずどこか安心感があるのは、その物たちに共感できる、私たちの経験があるからでしょう。駅舎を抜けると、そこには忘れ去られた貨物列車が。中には黒板があって、忘れたくない言葉や未来への伝言を記すことができます。2年前の秋、友達二人と何かを記したはず、忘れたくなかったはずなのに、何を記したか覚えていないことに気づき切なさが込み上げる。数か月後、駅舎も忘れ物たちも、地震の揺れを受けたと聞きました。今どうなっているのか——ネットの海を探しても、確かめる術はありません。
 今の能登は、誰かの忘れ物で溢れています。本来は日常を彩っていたはずのものたちだった、物体や無形の記憶たち。芸術祭で見た「小さい忘れもの美術館」は、忘れられたものを再び人の記憶の中に置き直す場でした。震災後の能登にも、きっとそんな営みが必要なのだと思います。形を失ったものを、別の形で記憶にとどめること。残された人がそれを語り継ぐこと。忘れられるものと、忘れられないもの。その境界線は、私たちの選び方次第で変わっていくのかもしれません。そんなことを思いながら、東京に引っ越してしまった私は能登行きの航空券を取るのでした。

推し地域=珠洲市飯田駅

「小さい忘れ物美術館に残る記憶」

(15) 「朝7時、青空、麦わら帽子」(ペンネーム:成田颯夜)

「晴れていれば、港にいる麦わら帽子のおじいちゃんに話しかけると、美味しい魚を焼いてくれるよ。」

ヒントはただ一つ――麦わら帽子のおじいちゃん。どうやらその人に声をかければ、朝から新鮮な魚を食べられるらしい。しかも運が良ければ、麦わら帽子を一緒に被って話せるという謎の情報付きだった。

これは前日の夕方、かねてよりお世話になっていた町の方から聞いた話だ。僕は以前から研究調査などでこの町に関わっているのだが、今回は久しぶりに様子を見に来ていた。宿には朝食をつけていない(もっとも、いつもそうなのだが)ので、どこかで調達する必要があった。そこで耳にしたのが、この噂である。噂と呼ぶのは、不確かすぎるからだ。まるでRPGの世界みたいなことが現実にあるのだろうか。

朝7時。雨は降っていなかった。心のどこかで疑っていたものの、足は自然と港へ向かっていた。そして、海の開けた場所に出ると、動く麦わら帽子が目に飛び込んできた。――本当にいたのだ。

「すみません、このあたりで魚を焼いてくれる方がいるって聞いたんですけど?」
「何食べる? 魚出すから、おにぎり買ってきな。」

言われるままにコンビニでおにぎりを買い、戻ってくるとサクラマスがこんがり焼きあがっていた。その後もイカやタコの皮(こいつがなかなかの曲者だった)が次々と現れる。ここはウニで有名な町だが、どんな魚でも格別に美味しい。海を見ながら口いっぱいに頬張った。

「これ被りな。」

そう言って、麦わら帽子を手渡された。海風に揺れる麦わら帽子の輪に、新たにひとつ加わった。心の中で「ラッキー、?」と呟いた。ここは北海道積丹町の美国地区。積丹町で最も大きい、小さな漁村である。岬の湯や神威岬へ向かう前に、ほんの少し寄り道してみてほしい。海風に揺れる麦わら帽子と焼き魚の香りが、この町の朝を特別なものにしてくれるはずだ。

推し地域= 北海道積丹町

「美国の青空と麦わら帽子」

ぜひあなたも自分の”推し”地域を想い、言葉にしてみるのはいかがでしょうか!

次回第4弾もお楽しみに!


第4弾はこちらから👇

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